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郷土愛は聞くのに、郷土史愛をほぼ耳にしない不思議🐸
歴史の覚えにくいところは、現代との結びつきが弱いところです。
残念ながら、古代史から現代史までたどると、かなり膨大な時間がかかります。
一番生活とかかわる、現代史や近現代史を雑に覚えていた、
という複雑な事実に気づかされました🐸
大きなくくりでさえ、そのような状態ですよ。
一地方の郷土史は、もっと悲しい扱いなのですかねぇ🐸
時代を逆行していけば、現代からの郷土史を学べる?🐸
大館市(おおだてし)の郷土史を、
現在(2023年:ハチ公生誕100周年)から始めます!
大館逆行史(概要)
- 2023(令和5年) 現在🐸
ハチ公生誕100周年を迎える。 - 1990年~2000年代(平成時代)
鉱山閉山・鉄道廃線・お店の廃業などが多発する。
都市鉱山事業へ転進する。 - 1968年(昭和43年)
大文字まつり 2代目市長ら、発案の観光イベントとして始まる。 - 1959年(昭和34年)
1956年の大町大火より復興のシンボルとして、
『正札竹村』(大館市のデパート)が開業する。 - 1945年(昭和20年)
花岡鉱山にて『花岡事件』が起こる。 - 1910年代(大正時代)
各鉱山の始業開始から、鉄道の開業が相次ぐ。 - 1885年(明治18年)
花岡村で、黒鉱が見つかる。 - 1867年(明治元年)
戊辰戦争(十二所の戦い、大館城攻防戦)が起こる。 - 1610年(慶長15年)
大館城代として、佐竹氏一門の小場義成(おばよしなり/佐竹西家)が就任する。 - 1603年(慶長8年)
浅利氏残党が蜂起する。佐竹氏がこれを鎮圧する。 - 1598年(慶長3年)
浅利頼平(あさりよりひら)没する。比内浅利氏の衰退につながる。 - 1527年(大永7年)
浅利則頼(あさりのりより)が、鳳凰山玉林寺(ほうおうざんぎょくりんじ)を開基する。 - 1185年(鎌倉時代)の壇ノ浦の戦い後
比内郡の地頭として、浅利義遠(あさりよしとお)が任ぜられる。
平成時代の市と結びつく、大正時代の町🐸
比較🐸平成・昭和⇔大正
(大正時代➡昭和時代にかけて)
大館という町が、鉱山の開発により、
資材や人員などの運搬で鉄道を開業し、人口を増やしたことが想像つく。
必然的に、町が拡大していき、市を名乗ることになっていくだろう。
(昭和時代➡平成時代にかけて)
各鉱山の産出量が減り、閉山になる。
資材や人員の運搬をしなくなるので、鉄道も廃線となり、
人口の減少により、商店も閉店になっていく。
秋田県の運送の形態が、鉄道から高速道路に変わり、
大館市も、その高速道路の恩恵を受ける。
都市鉱山<家電リサイクル→貴金属類を製錬し回収する事業>と
これまでの観光事業を発展させて、大館市は動いている。
ハチ公も驚き(?)の100年間の郷土史ですね!!
因みに、旧岱野駅(ニプロハチ公ドーム向かい)でも、
小坂鉄道が引退した後の、1部レールを見ることができます!!
大館城の名残ある街並みを、焼失する昭和大火🐸
比較🐸昭和⇔江戸時代
昭和の戦後、大館市政が始まります。
その時、4度の大火が起きました。
複雑に入り組んだ区画、狭い道路幅が見直されます。
消火栓や防火水槽、歩道の設置もされました。
その折に、復興シンボルとして
大館市のデパート『正札竹村(しょうふだ たけむら)』が開業しています。
大館城は、戊辰戦争の激戦で焼け落ちました。
しかし、町の区画が変わったわけではありません。
昭和時代、4度あった大火が大館の都市化計画を変えたのです。
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昭和から現代につづく、大館の観光イベント🐸
比較🐸現在⇔昭和時代(約50年前)
- 1968年(昭和43年) 大文字まつり ※送り盆の行事として。
- 1972年(昭和47年) 大館アメッコ市 <大町商店街にて>
- 1973年(昭和48年) 本場大館きりたんぽまつり
2代目市長(昭和)時代に、観光イベント事業が始まっています。
その折、民俗的な文化・風習、そして民話の見直しがされたと思われます。
50年過ぎた今でも、そのような歴史的な価値観を考えても面白いものでした🐸✨